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 湘南の田舎から日々雑感
by yahhosaito
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上海  ―租界もしくは魔都と呼ばれた都―

【プロローグ】
2010年5月1日、上海万博がスタートした。上海の浦東地区を中心に総工費約5兆5千億円をかけて行われる国家の威信をかけた一大イベント。参加国は246。
上海市民にとっては待ちに待った万博に違いない。

私は機会があって5月の初め、上海を訪れることになった。
実は上海は今回で2回目。最初は5年前の2005年。ちょうどSARSが猛威を振るっている最中の中国であったが、7月は何とか収まってタイミングよく行く事が出来た。

そして今回の2回目。
ある種の親近感をもって上海をみて、また昔から小説や歌で身近だった上海を実際に目にして、訪れ見聞きしていると、現在の賑やかさとは裏腹の、魔都と呼ばれた租界―上海―の実態と苦難に満ちた歴史が透けて見えるような気がしてくる。

租界と魔都。
何か意味ありげなこの響きに今回の旅行を機会に少し調べてみようと思った。


【租界、上海とは】
租界、あまり聞きなれない言葉だが(あるいは学校で習ったかもしれないが)租界とは中国政府の統治が及ばない外国人居留地という意味で、戦勝国が国土を占領(領土化)するところまでは行かないが植民地的にある一部の都市を保有することを言うらしい。
詳しい定義は分からない。中国は当時、清国といった。

一夜指令(1840)でアヘン戦争!
学校時代にごろあわせで暗記した1840年。
アヘン戦争は、清国とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。清国とイギリス、米国の三角関係の中で紅茶の輸入とアヘンを巡りそれぞれの利得が戦争に発展、1842年、アヘン戦争によって清国が敗れるとイギリスは南京条約で上海を租界として借り上げることになる。

ややこしいことに、イギリスに続いて、1848年にアメリカ合衆国、1849年にフランスもそれぞれ上海に土地を租借、1854年英米仏が行政を統一して租界となった。
しかし、フランスのみは1861年に再び単独のフランス租界とし、英米租界は1863年に国際共同租界となって、上海市民はそれぞれ各国の思惑に翻弄されることになる。

一方、租界では行政権と治外法権が認められ、道路・水道などインフラが整備され、建設・管理、警察・消防などの行政自治権を行使するようになって、西洋化が一気に進んでいった。
さらに、1865年には香港上海銀行が設立されたことをきっかけに、欧米の金融機関が上海に続々と進出しはじめた。
こうして治外法権を認めた清政府の施政権もほとんど及ばない状態になり、変わって現れた英米仏の西洋文明を受け入れながら上海は変容していった。共同租界ではバンド地区や南京路を中心に、フランス租界は淮海路を中心に西洋街が建設された。

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【上海の発展】
租界は当初西欧人の町であったが、1850年から10数年続いた宗教内乱である太平天国の乱を経て情勢が不安定になると多くの中国人が上海に流入していった。さらに辛亥革命を終え、軍閥が内戦を始めると更に人が集まるようになっていった。
それには以下の事情があったようだ。
租界の取り決めを行った条約では租界地での中国人犯罪者は中国政府に引き渡すはずであるが、上海には中国中央政府の施政権がほとんど届かないに等しい。

このために上海は中国人にとって法の抜け穴として機能し始める。特に政治犯の引渡しは行われないことが大半であったため、中国人の中には上海で結社を組む者や現政権に対する革命勢力を組織する者も現れた。
特に青幇(ちんぱん)は中国の秘密結社として中国の暗黒面を代表する犯罪組織になり、アヘン、賭博、売春を主な資金源として一時は中国全土の取引を支配のような組織となった。
また、これらの結社の中から国家主義的な思想を持つものが流行しだし、やがて反英的な活動から始まり、第一次世界大戦で日本が中国政府に21ヶ条の要求を行うと反日的な運動へと代わって行った。

一方で、上海では外国から訪れる人間にパスポートは不要であった。
このため、ロシア革命後には白系ロシア人が上海に多く流入し、住み着くようになった。更にアロー号事件やその後中国が行った条約によって治外法権を得たドイツ、イタリア、日本などの列強の人々もこの町に住むようになった。様々な人の流入と共に上海は豊かさを増し、これらの外国人によって上海は多様な文化を与えられた。

1928年のバンド上海は治安は悪かったものの、人々の自由は保障されていた。租界は治外法権とは言え中華民国(旧清国)の工部局が強力な警察組織も持っていた。このため内乱や掠奪などが横行し法も警察も無いに等しい中国内陸部よりは治安はだいぶましだったようだ。また、上海の法は外国人に有利に作られていた。

さらに、当時中国の軍閥が行っていたような思想の取締りのようなこともなく、考え、発言するのは自由であった。また、麻薬や売春といった行為が禁止されていたわけではなく、これらの行為は見過ごされることが多かった。
この地域の利権を持った外国人に迷惑がかからないのであれば上海人には一定の自由が与えられた。
混沌とした中にも上海の持つ自由は様々な人間を受け入れた。
その結果、旧来の中国の一般常識に囚われない生活形式の変化が起こり、上海から中国へさまざまな影響を与えていった。『阿Q正伝』、『狂人日記』などで有名な魯迅も上海で暮らした。

また、上海はアジア金融の中心ともなり、香港上海銀行をはじめ、多くの銀行が軒を並べるようになった。一方で商社なども増え、長江をルートとして内陸から流れ込む富をもとに莫大な富を生んで行くことになる。
内陸からは様々な食材が上海に運ばれてきた。こうした豊富な食料品を使い、上海に住みついた人々で様々な料理店も出来た。

また、上海に住む多くの人々の豊富な消費を見込み、百貨店のような大型販売店も増えていった。中国本土と異なり自由な発想が出来たため多くの思想誌や映画産業も発展していった。半面で規制が緩やかだったために阿片窟、売春宿、カジノなどの商売が行われ、裏の社会が築かれていった。
その中でも黄金栄、杜月笙、張嘯林は青幇の親分格として名をはせた。3人は地域の裏の顔役として闇社会を牛耳った。

一方で娯楽が豊富にあったために上海は地方の人々にとって憧れでもあった。
都会の持つ華やかで危うい魅力があった。事業に成功した者はバンドに洒落た建物を立て、最新の消費文明を享受した。豊かになるに従ってさらに多くの外国人が訪れるようになった。
流入したのは外国人だけではなく、多くの中国人も仕事を求めて流入し始めた。安い中国人労働力を求めて多くの工場も建てられた。多くの人によって産み出された莫大な富は上海に摩天楼を築き上げた。


しかし、勝ち組が沢山いた反面、それ以上に事業に失敗したものが多く出た。
失敗した人々は貧しいものだった。その結果、多くの中国人は労働条件の悪い仕事のもとで、劣悪な住宅環境の中、麻薬や売春などの行為に手を染めるものも多かった。これらは後に労働運動の加速に繋がっていくことになった。

こうして上海は極東一の大都市になり黄金期を迎えることになった。最盛期には150万人を超える人間が狭い租界の中に暮らした。人口密度は世界でも最大に達していた。また、上海はこのような独特の背景から魔都とも呼ばれるようになった。
そんな時代が1930年台初めまで続いた。


【その後の上海】
しかし、1927年蒋介石による北伐が開始されるとこの町も次第に戦乱に巻き込まれるようになってきた。
1927年の上海クーデター、1932年の上海事変、1937年の日中戦争では日本が空爆が行われ、長江には軍艦が登り砲撃を始めた。そして上海は日本の占領下におかれることになった。
1941年、太平洋戦争が起こると日本軍は共同租界に進駐し、英米人は抑留された。こうして上海租界は衰退していった。

1943年南京の汪兆銘政権が公式に共同租界、フランス租界を接収し、租界の歴史は終わりを迎えた。一度いなくなった外国人たちも上海に戻り始めたが、1949年以降は国共内戦で国民党が敗退し、上海を中国共産党が管理するようになり、往時の自由は戻らぬまま、上海租界の繁栄の歴史は閉ざされた。


【現在のバンド】
租界時代の建物も残る鄧小平による改革解放政策後、旧租界地区と黄浦江を挟む対岸の浦東地区を中心に、上海は急速に発展しており、新たな金融センターの様相を呈している。
しかし旧租界地区には現在も多くの場所に租界時代の面影が残っている。バンドでは当時立てられた建物が当時のまま、あるいは中国風に修正されて残り、これが上海の観光資源にもなっている。夜になるとバンドの建物がいっせいにライトアップされている。当時栄えたバンドからは東浦が見渡せる。昼間は黄土色に濁った川であるが、夜は街の明かりを反射して美しい。

特に2010年の上海万博に併せて上海は大きく都市の様相を変貌させた。
バンドの川沿いは都会的な洒落た遊歩道となり、街路樹が植えられイルミネーションも一層きらびやかになった。
夜遅くまで若者や地方からの観光客、外国人などで賑わっている。
対岸の高層ビル群はライトアップされ未来都市の様相を呈している。上海タワーは光で瞬き川には電飾で飾りつけた遊覧船がひっきりなしに行きかい、デズニーランドを見るようである。
川の往来はかつては船によるものであったが、外灘観光トンネルが完成して5分足らずで対岸にいけるようになった。

上海森ビルは地上101階、高さ492m。「垂直の複合都市」とよばれ世界中から人々が集う商業施設やカンファレンス施設、最高級ホテルなどを擁し、上海におけるビジネス、文化、エンターテインメントの一大拠点となっている。また、世界一の高さとなる展望台や建物の最上層部、天空に大きく開けられた四角い窓は、上海のランドマークとして上海の誇りのひとつとなっている。

一方で少し中心部から眼を移すと街中でも結構昔ながらの上海の面影を見ることが出来る。
狭い路地や行きかう普通の人々。生活の匂いが漂い、生身の人間の暮らしが見える。
未来都市の一面と中国4000年の歴史を今に伝える一面の両面が混在している。
ただ、その混在は急速にバランスを現代的方向にシフトしてきている。

バンドの前に流れる大河、長江の本流と思っていたがよく地図を調べると、支流としての一本の川だった。本流はもっとはるかに大きかった。やっぱり、中国は大きい。この国を舵取るのは難しいことだろう。

         *記述に当たってWikipedia他を参考にさせて頂きました。
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by YAHHOSAITO | 2010-05-30 20:17 | 海外・クルーズ | Comments(0)
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